フリーランスとして再出発したばかりの私は、「太田哲也さんに取材したい」と強く願った。人生に挫折はつきものだけれど、絶望してから、どう自分を納得させ、少しずつ這い上がってきたのか。本にも書いてあったけれど、会って直接、聞いてみたかったし、文章にしてみたかった。だから、サインをもらうとき、名前を覚えてもらおうと咄嗟に名刺を差し出した。変わった名前だから、もしも、この先、取材をする機会に恵まれたとしたら、「あっ、あのときの…」と思い出してもらえるかもしれない、と考えたからだ。
太田さんは、名刺に視線を移してから「隠岐さんへ」と名前入りにしてサインをくれた。名刺を出したところまでは我ながら珍しく積極的な行動だったと思うけれど、思いを伝えるまでの勇気はなかったから「名前入りでサインがほしいんだな」と受け取られて当然のシチュエーションだった。それはそれで、うれしかったのだけれど。
その後の顛末はこうだ。
篤子夫人に会う機会があり話を聞いてもらったときに「そういうガッツは大事よ」と言われて気をよくした私は、やるしかない、と思い立った。そこから先は、『Tipo』のエッセイに詳しいが、私が担当する川崎フロンターレのファンクラブ会報誌で中村憲剛選手のオススメ本として著書を紹介したところ、『Tipo』誌の経理担当者が偶然にもファンクラブの会員であり、その後、太田さんからサイン入り色紙と本が中村選手に届けられた、ということだった。いまでも思い出すのは、その事実を知ったとき、私は交通量が多い道路の歩道を、なぜか鼻歌まじりで小走りに駆けたことである。そんな行動をとってしまうくらいに浮かれていた。
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